2020.08.29
[column]「横浜アリーナ無観客配信ライブ、あの日の「フラカン時間」について」
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「横浜アリーナ無観客配信ライブ、あの日の「フラカン時間」について」
文:天野史彬
フラワーカンパニーズの横浜アリーナ無観客配信ライブは、ハイエースの車中で始まり、ハイエースの車中で終わった。メンバーがハイエースに乗って横浜アリーナのステージに乗り付け、ハイエースをバックに演奏し、そしてライブが終われば、ハイエースは再び4人を乗せてステージから去っていく。それはとてもナチュラルな動作で、フラワーカンパニーズとは何者であり、どこからやってきて、どこに帰っていくのか?――その秘密を画面に刻み付けるような演出だった。
配信ライブを観るたびに改めて感じさせられるのだが、ライブとはやはり「総力戦」だ。演者だけではない、照明やカメラなどの様々な技術者たちが集い、ひとつのステージを作り上げている。当たり前のことだが、配信ライブではそれを強く実感させられる。「生」配信となれば、なおさらだ。特に、今回のようなアーカイブ視聴が可能でありながらも事後編集の余地のない生配信の場合、ステージを作り上げる技術者たちは、瞬間を生み出しながら、同時に、その瞬間を保存していく。そこに必要なのは事前の緻密な計算や準備はもちろんだが、恐らく、瞬発力や反射神経がモノを言う場面も多いだろう。その瞬発力や反射神経を鍛えるのは、その人の経験や記憶である。経験や記憶の豊かさが、瞬間的な判断の正確さや鋭さに繫がっていく。そういう意味で、フラカンの横アリでは見事な「瞬間の保存」が行われていた。「自身最高キャパの横アリで、無観客配信ライブをやる」というアイデア自体は若いパンクバンドのようだが、それをあれほどのクオリティで成し遂げたのは、やはり作り手たちの経験が生み出す見事な技術である。
配信ライブのいいところはステージ上の様子が鮮明に見えるところだ。楽器を演奏する手や足の動き、より大きな身体の動き、そして、顔の表情――それらが、パソコンやスマホの画面にとても鮮明に映し出される。実際のライブハウスでは前列に行かなければ細かくは見えづらい、楽器を演奏するときの4人の繊細な動きをハッキリと見ることができたのもよかったし、なにより画面に映る4人の表情はとても嬉しそうだったのが印象的だった。「無観客」ということが彼らの演奏にどれほど影響を与えていたのか、僕にはわからない。強いて言えば、曲終わりやMCでいつものようなお客さんからの反応がないことくらいだろうが、それが大きな障害になっているとも思えなかった。そのくらい彼らはいつものよう熱く、優しく、ユーモラスで、でもヒリヒリとした緊張感の漂うライブをしていた。
これは前に他のバンドの配信ライブレポでも書いたことなのだが、こういう無観客配信ライブを観るとき、「お客様は神様です」という三波春夫の有名な言葉を思い出すことがある。この言葉には「神前で祈るときのように雑念のない気持ちでなければ、完璧な芸を見せることはできない」というような意味が込められていたというが、神様という厄介な存在を持ちださずとも、フラカンもこの言葉に近い気持ちで演奏していたのではないかと思う。ロックンロールバンドはロックンロールバンドであるために演奏した、ということ。もし、この日のフラカンのライブに「救われた」と思った人がいるのならば、それは「救われたい」と思いライブを観ていたその人の能動的な力の賜物であって、フラカンは別に誰かを救おうとは思っていなかっただろう。フラカンはひとえにフラカンであるために、横浜アリーナというばかデカい会場で、客がいないにもかかわらず踊っていたのである……ヨッサホイ、ヨッサホイ、と。その崇高な孤独が、ロックンロールバンドである。
個人的なハイライトを挙げると、「自分のことばかり歌ってきた自分ですけれども、僕ももう51歳になったし、若い世代に向けて親目線というか、先輩面して作った歌です」という鈴木圭介のMCを導入にして始まった新曲の「履歴書」。これは名曲だった。この曲は鈴木自身が言うように、彼の作詞において珍しくと言うべきか、明確な他者へのメッセージを歌っているようだったが、自分のことを歌おうが、誰かのことを歌おうが、やはり彼はその歌において「迷い人」の存在を歌い、あらゆる人生が描きうる「私小説」を肯定するのだと実感した。もうひとつの個人的ハイライトは、終盤に演奏された「なんとかなりそう」。
なんとかなりそうだ なんとかいけそうだぜ
とりあえず今夜みたいな 夜もあるんだから
この歌詞が、そのゆるやかな演奏に乗せて聴こえてきたとき、とても胸に染み入るものがあった。先の見えない暗澹たる状況下だからこそ、この曲の持つ、心をそっと撫でてくれるような優しい力が際立つ。「なんとかなりそう」は1996年の曲だが、こうして歌詞を書き出してみると、その後の「深夜高速」の歌詞と地続きのようで、より感じ入るものがある。
このコロナ禍、リモートワークなどが増えたことで人間の時間的な感覚にも変化が起きているのではないか、という記事を以前読んだことがある。それとは関係ない気もするが、フラカンを観ている間は、たしかに「フラカン時間」のようなものが流れていた。それは日常の中に差し込まれた、激しくも穏やかな、笑えるけど頼もしい、そんな夢見心地な時間だった。
フラカンの4人を乗せたハイエースは、横浜アリーナから離れて、次の夜に向けて走り出した。どこかの夜に、またみんなで一緒に踊れることを心から願う。
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「フラカンの横浜アリーナ -リモートライヴ編- 〜生き続けてる事は最大のメッセージ!〜」