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<フラワーカンパニーズ 年表> / >1995-2001 / >2002-2007 / >2008-現在 フラワーカンパニーズが、今年2009年、結成20周年を迎えた。 って、「結成○周年」とか「デビュー×周年」っていうのを、お題目や宣伝文句にして盛り上げを図る、というのは、ここ5年くらいのバンド業界の常套手段である。それに今や、20 年続いているバンドは、珍しくない。スピッツは去年が20周年だったし、真心ブラザーズは今年20周年だし、Mr.CHILDRENも今年20周年だし、Theピーズは2年前にSHIBUYA-AXにて、友人知人のミュージシャン大挙ゲスト出演で(フラカンも出た)華々しい20周年記念ライヴを行った。 ただし。フラワーカンパニーズの20周年と他のバンドのそれには、決定的な違いがある。どう違うが、当の鈴木圭介が、端的に言葉にしていたのでご紹介します。09年3月12日渋谷O-EAST、スペースシャワーTVのライヴ番組『Double Punch』で行われた斉藤和義との対バン企画『フラカン和義のロックンロール3,000,000』にて。 「フラカン、今年20周年なんです。20年、一回もメンバーチェンジなしで、やってるバンドなんていないんだから! たいていメンバーチェンジしてるか……ブレイクしてるんだよね」 フロア、爆笑。 「メンバーチェンジしないで、しかもブレイクしないで、ここまで続けるのって大変なんだから!」と言葉を足す圭介。確かに、ここまで長く、同じメンバーで、ブレイクもせずに続いているバンド、フラカンだけだ。普通は、売れたから続く、売れたけどやめる、売れなくて食えないからやめる、全員はやめなくてもメンバーの誰かがやめる、その4択のどれかだが、フラカンはどれでもないのだ。 もう一つ言うなら、「半年間の活動休止」とか「3年間のリリースのない次期を経て」とか、そういうのもない。ずーっとやっていた。で、現在に至る。ジリ貧で、アルバイトしながらやってきたのか、というと、そうでもない。裕福では全然ないだろうが、とりあえず4人とも食えてはいる。 そればかりか、結成19年目だった昨年、7年8ヶ月ぶりにメジャー・レーベル復帰まで、はたしてしまった。しかも、ドロップアウト前と同じソニー・グループだ。何でドロップアウトしたのかというと売れなかったからなわけで、にもかかわらず7年8ヵ月も経って同じ会社と再契約したなんて例、少なくとも僕はきいたことがない。他にソニーをやめてソニーに戻った例、僕が知っているの、松田聖子くらいです。 さて。そんな特殊なバンド、フラワーカンパニーズが、そんな特殊な20周年を迎えるまでを、振り返ってみたいと思います。 1989年、名古屋にて結成。メンバーは、同じ中学だった鈴木圭介(ヴォーカル)と前川昌彦(ベース)と小西康文(ドラム)、前川と同じ高校だった竹安堅一(ギター)の4人。のちに上京のタイミングで、マエカワはミック前川、カルロス前川と経て、グレートマエカワに、小西はミスター小西に、鈴木圭介は鈴木けいすけになる(のちにまた圭介に戻る)。どうでもいい豆知識だが、グレートは全日本プロレス(当時。のちに大日本プロレスを旗揚げする)のグレート小鹿、小西は新日本プロレスのレフェリー(のちにプロレスの仕組みをばらした暴露本を書いて大騒ぎになる)、ミスター高橋からいただいた名前です。 名古屋の老舗ライヴハウス、ELLをベースに、オーナーから「うちに出ているバンドでフラカンがいちばん下手だ」とか言われながら、活動を開始。音楽性は、圭介のパンクと前川&竹安がブルージーなロックンロールを、全員の共通項である「URC等の70年代ニッポンのフォーク」でもって無理矢理まとめたようなテイスト。時はイカ天/ホコ天/ビートパンクの、バンドブームまっただなかであり、そんな音楽性であるがゆえにまったくそれにのっかれないながらも、『フラカンの赤い夕焼け』『フラカンの暗い週末』などのデモテープを制作、ライヴ会場で販売する。2,3年後、なんとか100人弱くらいまで動員を伸ばしたところで、ソニーのSD(新人開発セクション)にひっかかり、SD傘下のインディーズ・レーベル、インディヴィジュアル・レコードから、1992年2月28日、初のCD『聞コエマスカ』をリリース。「名古屋のエレカシか!?」というコピーで、音楽専門誌ロッキング・オン・ジャパンに取り上げられ、ライヴハウス・シーンでちょっとだけ話題になる。 93年あたりから、ツアーで東京へ来るようになり、下北沢や吉祥寺のライヴハウスに出始める。翌94年、上京。マネージメントはシンコー・ミュージック(ここで斉藤和義と出会う)、レコード会社はソニー傘下の今は亡きアンティノスレコードと契約、1995年5月21日に、ミニ・アルバム『フラカンのフェイクでいこう』でデビュー。当時は、渋谷系が大爆発している時期であり、同時に優れた新人ロック・バンドが次々と頭角を現してきた季節でもあった。例えば、ちょっと先輩がミスチルでありスピッツでありウルフルズ、同期がザ・ミッシェル・ガン・エレファントでありホフディランでありサニーデイ・サービスであり――という時代だった。その中にあってフラカンも、動員と知名度をじわじわとのばし、3rdアルバム『オレたちハタチ族』(1996年)〜4thアルバム『マンモスフラワー』(1998年)の時期にかけては、レコード会社にも大プッシュしてもらえてそれなりに派手な展開になり、日比谷野音でワンマンやったり『HEY! HEY! HEY!』に出たりするも、今ひとつ他の同期のみなさんのようにはブレイクしきれず、その後は徐々に下降。 圭介が圧倒的な声量を放ちながら転げ回り歌い回り、「ベースを弾く野人」グレートが暴れまわる、そのライヴ・パフォーマンスは、当時から高く評価されていたが、作品がなかなかそれに追いついていかなかった。と、今になると思います。そんなわけで、6thアルバム『怒りのBONGO』(2000年)を最後にレコード会社との契約が終了、マネージメントとの契約も同時に終了することになる。 普通なら、ここで終わるか、終わらなくてもインディーで活動しつつだんだん尻すぼみになっていくところだが、ここから本格的に、フラカンの特殊性が発揮されることになる。まず、7thアルバム『吐きたくなるほど愛されたい』(2002年)から、インディーズのトラッシュ・レコーズでリリースを開始。そして、グレートマエカワがプレイングマネージャーとなり、すさまじいブッキング力を発揮、それまで年に一回か二回くらいだったツアーを大幅に増加。年に年間100本オーバーあたりまえ、常に全国をツアーし続けるバンドと化す。それで草の根的に人気が上がり始め……というほど簡単にはいかなかったが、2003年、イベント・ツアー『SET YOU FREE』からオファーを受けて出演、銀杏BOYZやサンボマスターと共演したことで、状況が激変。その対バンを観に来ていた若いファン(特に男)がフラカンの存在を知り、大挙してライヴになだれこんでくるようになり、動員が急上昇。さらに2004年、「フラカン史上もっとも有名な曲」1位の座を守り続ける大名曲“深夜高速”が誕生。メジャーな世界では「まだやってたの?」状態だったが、ライヴハウス・シーンにおいてはその存在が認められ始める。フジ・ロック、ライジング・サン、ロック・イン・ジャパン、カウントダウン・ジャパン等、メジャー時代には縁がなかった各地のロック・フェスからも、声がかかるようになる。 この頃より、課外活動もスタート。鈴木圭介は弾き語りで、友部正人などの偉大なる先人たちと共演。グレート&竹安はうつみようこ&YOCOLOCO BAND(レギュラー)、遠藤賢司&カレーライス(時々)でプレイ。またグレートはYO-KINGのバンド、インディアンズのメンバーとしても活動している。 以降も年間100本オーバーのライヴと、平均アルバム年1枚ペースのリリースを続けていき、結成19年目にあたる昨年、ソニーミュージック・アソシエイテッド・レコードと契約してメジャー復帰。11月にシングル“この胸の中だけ”とアルバム『たましいによろしく』をリリースする。 以上です。1回目のメジャー時代と、それ以降のフラカンが、どう違うのか。音楽性や楽曲のクオリティや歌詞は、実はあんまり変わっていない。と、僕は思っている。もちろん、年齢と経験を重ねた分、今のほうが深くてリアルな歌詞になっているが、昔の曲が全然負けている、とは思わない。じゃあどこが変わったのかというと、まず、ライヴ・パフォーマンスの力。元々ライヴがよかったバンドだが、年間100本を超えるロードによってそれがさらに磨き上げられていき、いぶし銀なベテランと共演しても元気いっぱいの若手と一緒にやっても常に圧勝する、言わば「対バンキラー」な存在になっていった。そして、もうひとつは、イメージだ。 1回目のメジャー時代のフラカンは、正直言って、あんまりイメージのいいバンドではなかった。「ダサい」「でもちょっとかわいい」「面白い」「でもチャラい」「総じてB級」みたいな線だった。ファンのほとんどが若い女の子であり、あれだけのライヴをやっていたにもかかわらず「すごい」や「かっこいい」とは無縁だった。それが、インディーでの活動によって、「すごい」「かっこいい」バンドとして、正しく認められるようになった。ファンからもそうだが、特に同業者からの目線が変わった。「すごいライヴをやるすごいバンド」として、好かれたり、尊敬されたり、対バンを希望されたり、銀杏BOYZ峯田和伸が「ああいうバンドになりたい」と雑誌で言ったりする、そういう存在になっていたのだ、いつの間にか。 「何で俺は何にも持ってねえんだ」「何で俺はこんなにダメなんだ」「何でこんなに何もかもがうまくいかねえんだ」という煮詰まりと、その末の逆ギレ。それに、ブルージーでちょっとパンク入った激しいロックンロールでもって引火して爆発させる、ということ。フラカンはずっとそうだったし、そこが魅力だったし、だからそこがダメな人はファンにはなれなかった。しかし、2008年のフラカンは、ある意味今でもそのまんまだけど、それだけじゃないとこも確実にある。もっと豊かで、鮮やかで、聴く人の奥深くにまで刺さる音楽になっている。彼らの作品を、ライヴを必要としている人は、絶対に、今届いているよりも、もっともっと存在しているはずだ。 と、僕はアルバム『たましいによろしく』の宣伝資料用原稿で書いたが、ひとつ付け加えておきたい。これを書いたの、まだ半年前だが、その頃と比べると、既にその「もっと存在している」人たちに、フラカンは届き始めている。そして、それはこの先、さらに広がっていくと思う。 (兵庫慎司/ロッキング・オン RO69) |
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